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銀花翠葉

アニメの感想ブログです(更新は終了しました)

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(揚げ足取り大祭・続々)

※以下はネットに出ているインタビュー記事から部分的にコピー
(まともなソースからきちんと引用したものではなし)

──ほかにも、片渕監督の考えで原作から変更を加えているシーンはありますか?

片渕 この時点でのすずさん、つまり当時の普通の日本の生活者は「こう感じないだろうな」ということで変えたところはあります。あくまで、劇中の時点でのリアリティに立つべきだと思ったわけです。

──例えば、原作では、玉音放送の後、街中に朝鮮旗が掲揚され、「この国から正義が飛び去ってゆく」「暴力で従えとったいう事か」というすずさんの独白があります。しかし、映画ではこの独白は別のセリフに替わっていました。

片渕 ここで使われている「暴力」とか「正義」というのを、当時の人は意識してないんですよ。終戦直後に米国の進駐軍が行った当時の意識調査がちゃんとある。むしろ、庶民がそれ(「暴力」や「正義」といった意識)を抱いていないことに、進駐軍のほうがビックリしているくらい。

庶民の側には、普通に国が戦争をやってるからくっついていっただけ、みたいな感じがある。庶民は「アメリカのほうが科学力や物量に優れていて、単純にそれで負けた」と思っていて、実は「正義」とかっていう言葉は入ってきようがない。まだ、きちんとした認識が生まれていないんです。なので、すずさんが生活者視点でそういった意識に近いことを気づくとしたら、どういった言葉になるのか? と考えて、セリフを変えています。



もひとつ別のインタビューから

──終戦を迎えて怒り涙するすずさんの台詞が大きく変わっていました。ここまで大きく変えた理由というのは?

あのシーンは終戦を迎えた日本人がなぜ泣いたのか、こうのさんが「実は自分の感情では理解できない」って言われたことがきっかけなんです。それで実際にはどうだったのかを色々と調べてみたのですが、当時の人の日記を見てみると、本当に皆さん泣いているんですよ。それから、終戦直後に進駐軍がやってきて日本人の意識調査をやっているんですね。いろんな町でいろんな階層の人にどう思っているのかを聞いているのですが、ほとんどの人がどうも大義とか正義で負けたとは思ってなくて、単純に科学力と物量で負けたっていう悔しさがあるとしかいっていなくて……。もしそうなら、あのシーンですずさんは日本という国をいきなり背負わなくてもいいんじゃないか?と思ったんです。彼女の身のうちのことで、同じように悔しいと思う理由を考え出せないかと考えたんですね。

すずさん自身はお米を炊いておかずを作って……ということをずっとやってきて、そこに彼女のアイデンティティがあった訳です。ならば、ごはんのことで原作のようなことを、彼女のことを語れないかと考えたんですね。

実際、その当時の日本本土の食料自給率ってそれほど高くなくて、海外から輸入している穀物がなければやっていけなかったんですよ。そういうのがわかると、やっぱりすずさんは生活人だから、あのような反応をしたほうがいいと思ったんです。



話としては3月28日の記事(→これ)で話題にしたことの続きになる
玉音放送の後のすずの独白が映画で大きく改変されていることの理由
を監督自身が説明している部分を参考のため引用した

監督のアンサーをきいて納得できる人はそれでよし
それなら問題はない(→以下は読む必要なし)
本記事ではこの問題についてあらためて批判的に取り上げる


(※気になる言いかた一覧)

「すずさん、つまり当時の普通の日本の生活者」
「当時の人」
「庶民」
「当時の意識調査」 
「日本人の意識調査」
「終戦を迎えた日本人」
「すずさんが生活者視点で」
「やっぱりすずさんは生活人だから、あのような反応をしたほうがいい」
「すずさん自身はお米を炊いておかずを作って……ということをずっとやってきて、そこに彼女のアイデンティティがあった訳です」





監督の弁明の趣旨は、
史料を調べてみるとどうやら「当時の人」(「庶民」)たちは
原作のセリフのようにはあまり考えていなかったらしい
だからもっと史実に合うように変更を加えた、ということのよう
原作のセリフであっても史実に反すると思うものは積極的に改める
ここでも監督の「史実」への徹底的な(マニアックな)こだわりが見てとれるわけ
なのだろう…


が、


しかしだ!


まずそもそも、
「当時の人の意識はこうだった」と監督の言うようなことが
厳正な学問的手続きによって立証された事実だという保証はとくにない(でしょ?)
進駐軍のやった「日本人の意識調査」なるものが
どれだけ信頼の置ける資料なのかもよくわからない
たまたま自分の考えにとって都合のいい資料を見つけたってだけかもしれない


それだけではなく、
「当時の人はこうだった」が仮に絶対間違いのない事実であったとしても
それが原作の重要なセリフを改変していい理由には必ずしもならない


なぜならば!


その理由が通るためにはまず、
原作マンガ自体が「当時の人」なり「庶民」なりの一般的な意識や考え方を
正確に再現することを目指した作品であるという前提が必要になる
(はたして原作はそういう作品だろうか…?)

また、原作者がすずという主人公を、
「当時の普通の日本の生活者」の典型として描いているという前提が必要になる
(はたして原作者はそのように描いているだろうか…?)

また、すずの件の独白が、「終戦を迎えた日本人」の
ごく普通の平均的な反応を表わすものとして描かれているという前提が必要になる
(はたして原作はそのように描かれているだろうか…?)


以上の前提が満たされないならば、
「史実と違うようだ」という理由で原作の表現を改変することは、
(どれだけ文献を渉猟し史実を精査していたとしても、)
必ずしも正当化できることではないはず

「この世界の片隅に」は
あくまでフィクションとして物語られた作品なのだから

物語である以上は
歴史的事実からあるていど離れた理念化された世界を構築している
そこには語り手ないし描き手のおもいが重ねられ塗りこめられている
主人公すずは半分くらいは作者(こうの史代)その人でもあって
すずの独白にはこうの自身のおもいや考えや叫びが投影されているはず
「この国から正義が飛び去ってゆく」
「暴力で従えとったいう事か」
というのはそういうセリフであるはず

これを「史実はこうでなかった」 or 「当時の人はそう考えていない」
から改変すべきだと考えるのは
原作者の気もちを(「史実」を口実にして)踏みにじっていることになるし
そもそも物語というものへの無理解をさらけだしていることにならないだろうか?


時限爆弾の構造などは単なる「事実」の次元の問題だから
原作よりも正確な描写に改めればよいだけ(それは全く問題ない)
しかし物語の重要なシーンでの主人公すずの心情や独白
これは単なる「事実」の問題ではないのだから
史実を根拠にしていじくっていいものではない
「リアリティ」を勘違いしてはいけない
すずが何を想ってどういうことを口にするか
それはあくまで物語の論理にしたがって(「史実」にではなく)
考えるべきことではないのか?

(以下ただのイチャモン)
なぜそこで「実際にはどうだったのか」という発想になるのだろう?
原作の物語よりも歴史知識のほうが大切なのか?
つまりはただの歴史オタクなのか?
「ボクちゃんこんなに知ってるもんね」なのか?
「終戦直後に米国の進駐軍が行った当時の意識調査がちゃんとある」
なぜここでこんな言葉が出てくる?
「ちゃんとある」って、一体何が「ちゃんと」なのだ…?


松のことは松に習え
竹のことは竹に習え
すずさんのことはすずさんに(つまり原作に…?)
「進駐軍の行った当時の意識調査」なんぞにお伺いを立てんでも…


補足
原作者にしても調べ魔な人らしく
原作自体がそうとう質の高い考証の上に立って描かれたもの
下巻末には「おもな参考文献」その他が明記されている
作中には当時のビラ、回覧板、愛國いろはかるた、米軍の伝単、等々何でも出てくる
ただしそれはあくまでマンガ表現のための手段として使っている
「引用」とか「パロディ」とかいうと古いポストモダン馬鹿の寝言のように聞こえてしまうが
原作での「史料」の使いかたはそれに近い
映画のように「考証」自体に凝って「考証」成果を誇りたくて出しているわけではない…


(続く)





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